Hamaorisai
浜降祭
昭和五十三年 神奈川県無形民俗文化財 指定
昭和五十七年 かながわのまつり五十選 選定
祭典についての説明
七月の第三月曜日「海の日」(平成十六年度より)に行われる禊祭です。江戸時代までは、佐塚明神社の例祭として六月二十九日に「晦日祭(みそげさい)」といわれ、七か村の神輿が南湖浦に渡御し「浜祈祷」が行われていました。
午前三時に「神幸発輿祭」が終わると、禊の祭場である南湖海岸へと宮立ちされます。このとき境内には西久保「日吉神社」、矢畑「本社宮」、円蔵「神明大神」の神輿も集まり、八幡宮神輿を先頭に揃って神幸されます。
まだ明けやらぬ境内をお立ちになり、太鼓橋を渡り、古歌にうたわれた「八丁松並木」の長い参道を提灯の灯りを揺るがせながら進む神輿の姿は幽玄の世界を感じさせます。
大昔は、大門先で禊が行われていたとされますが、海岸線が参道の一の鳥居付近まで入り込んでいたためです。最近の浜降祭には多数の神輿が集まりますが、以前は少ないものでした。
八幡宮の氏子地域は広く浜之郷、西久保、矢畑、下町屋、松尾、円蔵、南湖と七か村の総鎮守府として皆、八幡宮の神輿を担いでいたものでした。神輿は文化三年(1806年)のもので、茅ヶ崎では一番古いものであり、また棟札を見ると天明年間(1781~1788年)に神輿を作ったという記録もあります。
八幡宮では、太古より独自の浜降りが行われていたことが「相模風土記」や社伝から伺えます。
祭日は旧暦六月二十九日でありましたが、明治九年に七月十五日に改められ、寒川神社との合同祭典になりました。その後別々に行われた時代もありましたが、再び合同で行われるようになったのは、大正十二年頃といわれています。
浜降祭について
浜降祭という神事の名前は、茅ヶ崎市の鶴嶺八幡宮と寒川町の寒川神社とが合同で神事を行うようになってから、言われるようになった名前です。海岸で御神霊がお乗りになった神輿を氏子中が担いで浜に行き、禊をはじめたのは鶴嶺八幡宮が最初です。その頃は国道1号線に面した赤い大鳥居の近くに海があったからという事なので、かなり昔のことと思います。因みに神輿の建立は、文化三年(1806年)ですから約200年程前のものです(棟札を見ると天明年間(1781~1788年)に神輿を作ったという記録もあります)。その当時は、鶴嶺八幡宮合祀の佐塚明神社の例祭である旧6月29日に行われた晦日祭(みそげさい)で、御神霊が神輿にお乗りになり海まで行き禊をしたのが始まりです。
その後、川に流された寒川神社の神輿を南湖に住む漁師が助けたことから、寒川神社が南湖の浜まで来るようになりました。
毎年、6月29日に浜で禊をしていた鶴嶺八幡宮と、お礼のため南湖の浜まで来ていた寒川神社が相談し、合同で浜で神事を致しましょうということになり明治9年7月15日を両神社の合同祭典「浜降祭」となりました。一時期、別々に行われたこともあるようですが、現在まで続いている祭典は、大正12年頃からだそうです。
約80年の間、両神社の合同祭典として執り行ってきた神事ですが、この間に建立された神社も増え、それに伴い神輿も作られてきました。本年度の浜降祭での神輿も三十基を越えるようになりました。
今では「夏のイベント」という感じになってしまいましたが、元は氏子中が「いつも私たちを見守って下さっている氏神様に、あらたなお力をつけて戴き、これから先も見守ってください」という崇敬の念から始まったもです。浜で御神霊がお乗りになった神輿の前での祝詞奏上の中には「いつも私たちを見守ってくださる感謝の気持ちを申し上げ、そして人々が神様のように清い心を持ち、たくましく生きられるように、又、世の中が平和であるように」と祈願しています。
約三十基の神輿を一度に見られるイベントだっ!と浮き足立つのもいいですが、神事にはとても深い歴史があるものです。その歴史を考え、又、日頃から神様に御奉仕されている神職の気持ち、浜降祭という神事を後世に伝えるために途絶えぬようにと努力してきた御先祖様の気持ちを、改めて考えてみてはいかがでしょうか。次の年の「浜降祭」は又違う気持ちで参加出来る事と思います。